三日間学校を休んだ。
午前八時十分。本来ならばもう家を出ていなければいけない時刻だ。
乃村永遠子は制服姿で目の前にあるスマホを眺めた。
今年高校二年になる彼女は、学校で陰湿な嫌がらせに遭っていた。元来大人しい性格で、気弱な永遠子は、人に話を合わせるのが上手くなく、いつも友達の話に乗るのに遅れ、時に自覚なく変な相槌を入れることもあり、度々他の生徒達をイライラさせていた。
ある日、いつも一緒にいた女子生徒三人から無視されるようになった。
永遠子はうろたえ、何故自分を無視するのか、いないように扱うのかを尋ねたが、皆一様に目を逸らし、取り付く島もなかった。
そしてある休みの日、永遠子が何気なく無料通話アプリ、ラインのタイムラインを覗くと、そこには永遠子以外の三人で夢の国ディズニーランドに遊びに行っている写真が上がっていた。
永遠子は傷ついた。
こういう分かりにくく、遠回しな嫌がらせは面と向かって指摘しづらく、極めてその女生徒達の底意地の悪さ、卑劣さ卑怯さを感じ、吐き気がした。
永遠子はその日の翌日から三日、学校を休んでしまった。
朝、朝食を食べ、家を出る支度はしたものの、昨日のタイムラインの出来事がまだ尾を引いていて、今日からまた一週間、あの三人の陰湿な女生徒達の顔を見なければならないと思うと、気分が悪くなってしまい、登校しようという気がまるっきり失せてしまったのだ。
永遠子は母親に腹痛がすると嘘を吐き、学校をずる休みした。
母親は恐らく永遠子の仮病を見抜いていたが、深く詮索せずにパートへ出かけた。
過去にも数回、永遠子はずる休みを繰り返した時期があったからだ。
――学校は嫌いだ。
あの四角形の狭い空間に三十人あまりの生徒が押し込められて生活しているのだ。
知らない家の、他人の子供が三十人……争いや迫害が起こっても仕方のないことなのかもしれない……。
永遠子は三日目の今日、制服姿のままベッドに横になり、ぼんやりしていた。
――♪
「!」
永遠子はビクッと慄き今音がした方向を見た。
(誰かからラインだ…)
永遠子は複雑な気分になった。
彼女には友達と呼べる人間が少ない。だからラインも必要最低限の友人としかしない。
というより、現在永遠子が頻繁にやり取りをしているのは、無視されている三人の友人達くらいのものであった。
永遠子はベッドから沈鬱な面持ちで起き上がり、スマホを見た。
ラインなど、無視してしまいたかったが、それはそれで気になって変にストレスが溜まるのですぐに見てしまった方がよい。
永遠子は三人の友人ではないことを祈りながら恐る恐るスマホを覗いた。
「……?」
永遠子は訝しむような顔をしてそのラインのメッセージを開いた。
ライン名「Eternal」と書かれた謎のメッセージだった。
永遠子はそれを見た瞬間ホッとした。
それは三人の友人からではなく、知らない誰かからのスパムメッセージのようなものだったからだ。
(よかった。…でも誰だろ?「Eternal」って……?ダサい名前)
永遠子な内心そう思いながらそのメッセージを見ると、それはゲームアプリの誘いだった。
(知らない人からゲームって、なんか絶対ヤバいやつだよね…)
永遠子は苦笑しながらスマホをベッドに放り投げ、その真横にあるソファーに思い切り倒れこんだ。
夕飯を食べ、風呂に入った後、永遠子はぼうっとテレビを見ながら明日の学校のことを考えて憂鬱になっていた。
(やだなぁ……明日も休んじゃいたいな)
だがもうこれ以上休めば学校に余計行きづらくなってしまう。
行ったとて、どうせ一人ぼっち、皆からスルーの洗礼を受けるだけ……しかし出席日数が足りなくなり留年するのは避けたかった。
永遠子はふとスマホを見つめた。
ラインを起動する。
タイムラインには相変わらず他の三人の女生徒達の「リア充自慢」が繰り広げられていた。
「死んじゃえばいいのに。こんな奴ら…」
永遠子は毒づいた。
永遠子はブロックしてしまいたい衝動に駆られながらスマホをギュッと握りしめた。
――自分はこんなに傷ついているのに。
――自分はこんなに苦しいのに。
相手が少し気に入らない態度をとっただけで簡単に手のひらを返す奴ら。
人は誰か一人を犠牲にして敵とみなし、その一人を迫害することで心の平安を得ようとする汚い生き物だ。
そんな小さい人間、今は楽しいだろうが、いずれ天罰が下るに決まっている。
永遠子はそんな自分の黒い感情はそのままに、今朝届いた「Eternal」なる人物から届いた謎のメッセージを再び開いてみた。
「Eternal」は、もしかしたら昔の中学校の旧友がいたずらで送ってきたものかもしれない。ゲームアプリの誘い……ラインから届けられたのだから、怪しい類のものではないだろう。永遠子は軽い気持ちでこのゲームを起動してみることにした。
「…トゥーチョイスワールド……?」
永遠子のスマホ画面には『Two Choice World』と書かれた画面が映し出されていた。
そして下画面には『START』の文字。
ゲームはあまり得意ではないが、暇つぶしだと思ってプレイして見ることにした。
STARTのボタンをタップすると、途端に画面が白く発光した。
『フレッシュボドム!』
「!」
スマホからいきなり甲高い声が響き永遠子は驚いた。
『こんばんは!僕、サクラ!』
そこには薄桃色のウェービーヘアの男の子がチャーミングに笑っていた。
服は薄いオレンジ色のワンピースのようなものに、下は緑の踵にヒールの付いたボーダータイツのようなものを履いている。
永遠子は一瞬女の子と勘違いしそうなその恰好に、息を呑んだ。
何故男だと分かったかといえば、声が高めのハスキーな男の声なのだ。その子は何か円筒状をした、中にピカピカ光る物体が浮遊している棒付きキャンディのようなものを咥えながら機嫌良さそうにしている。
『今日は楽しいハッピーホリデイ♪るんるん、ワットちゃんとデートするんだ!』
画面では『ワットちゃん』ならぬ人物と会う約束をしているらしく、少年は浮足立っている。
自分はかなり異質なゲームをしているんじゃないか、こんなゲーム需要があるのかと、永遠子は少し不安になった。
そして、サクラという少年が歩いて行った先に、夜の街に一際光り輝く、色んな店が立ち並ぶ商店街に辿り着いた。そこはまるで、何かのテーマパークのような雰囲気の商店街で、ドギツイ色をした電気屋や肉屋などが立ち並んでいた。他にも「太もも」と書かれた店や、「糞」「尿」と大きく書かれた看板のあるバーも発見した。
「なんか悪趣味…」永遠子が呟く。
そしてピンクのナスビやブルーのトマトなどが売られている八百屋の前に、茶色いボブヘアーをした女の子が立っているのが見えた。
『ワットちゃん!』
サクラが大声で名を呼んだ。
すると気づいたらしいワットがこちらを向いて、微笑んだ。
「あれ?」
その時、永遠子は少し驚愕した。
その「ワットちゃん」は自分の顔に似ていたからだ。
このゲームはアニメの絵柄なのだが、丸い顔、伏し目がちの瞳、右目の下にあるホクロなど、まるで「永遠子をモデルにして作りました」と言えそうなぐらい似ていた。
永遠子はなんだか恥ずかしい気持ちになりながら、それでも先が気になったので続けてみた。
『サクラ君!』ワットが嬉しそうに少年の名を呼んだ。声も永遠子に似ている。
二人は駆け寄って、手が触れるその瞬間、何処かから獣らしき咆哮が聞こえた。
『うわっ!?』
『きゃー!』二人の悲鳴が響く。
そこには、ハイエナのような顔の三つついた化け物がいた。
その得体のしれない生物の体高は一メートルくらいあるだろうか、顔は真っ黒くハイエナのような顔をしていて、鈍色の眼を割れた鏡のようにぎらぎら光らせ、胴体は紫色のライオンのような肉食獣の体格をしていた。
その化け物が二人の前に立ちふさがり、グウウ…と唸りながら涎を垂らしている。
『クッソー!ラブラブハッピーな俺たちの邪魔はさせないぞ!ヒャッハー!』
そう言ってサクラは懐から剣を取り出すと、それを構えて向かって行った。
化け物はもう一度雄叫びをあげるとサクラに突進した。
『ブニャー!!』するとサクラは服を食い破られ、吹っ飛ばされてあっという間に撃沈。
いつの間にか、ピンク色の猫に変貌し気絶していた。
これには傍観していた永遠子も驚いた。
『サクラ君!』ワットは猫になって倒れている少年に駆け寄った。
サクラはピクリともせず、そこに転がっていた。
『……よくも私のサクラ君を……』
そう低い声で囁くように呟くと、ゆらりと彼女は立ち上がり、その化け物と対峙した。
すると、今までタップするのみだった画面に変化が起きた。
『倒す』
『逃げる』
選択肢だ。
永遠子はすかさず『倒す』をタップした。
勝てるかどうかは別として、これが最善の選択肢だろう。
ワットは持っていたカバンから水色の液体が入った小瓶を取り出し、蓋を開けると地面に撒き散らした。
獣は背中を丸めて蹲り、そして、飛び跳ねるようにして再度、咆哮をあげて向かってきた。
すると画面上の獣にボタンのような二重丸が表示される。
永遠子は何故かその瞬間アドレナリンが脳から大量に分泌されるのを感じ、身の危険を肌で感じた。
永遠子は無我夢中で画面を連打した。
『――その通りになれ』
ワットがそう呟くと同時に、画面内が一面青黒い硝煙に包まれた。
永遠子は一瞬何が起きてるのか分からなかったが、画面にポップな字体で「You Win!!」と表示されているのを見て、あぁ、クリアしたのだと思った。
画面にはワットの無感動な表情が表示され、消えた。
ゲームは強制終了してしまったらしい。永遠子は思いっきり息を吐きだした。
息をするのも忘れるくらい、そのゲームに熱中していたらしい。手汗もかいている。そして、口内がチョコレートのような甘い味で満たされているような錯覚を覚えた。
「その通りになれって、何だったんだろう…」
永遠子は先程少女が呟いたセリフを反芻し、少し、不穏な気持ちになった…――。
――翌日、永遠子は重い足取りで登校した。
教室の扉を開ける。
「‥‥‥」
すると、さっきまで騒がしかったクラスが、水を打ったように静まり返り、一呼吸置いた後、また騒がしくなる。
永遠子は不快な気分になった。
チャイムが鳴り、皆が各々着席していく。
永遠子も席に座ったが、何か違和感を覚えた。いつも永遠子を陰で嘲笑していた三人の女子生徒が一人もいないのである。
(英子、美衣子、志位子、みんないない)
永遠子はその三人が揃っていないことに初めて気づいた。
そして、そんな永遠子を見つめる、何人かの視線を感じる。
永遠子はその視線に我慢できず、何故自分をそんなに凝視するのかを問おうとした時、教師が扉を開けて入ってきた。
日直が号令を掛ける。教師は少し動揺しているようだった。
「みなさん、落ち着いて聞いてください」
教師は息を継ぐと、こう告げた。「…昨日の夕方、英子さん、美衣子さん、志位子さんの三人が下校中に事故に遭い、入院したそうです。三人とも意識不明の重体だそうです」
一瞬の沈黙、そして永遠子は頭の中が冷たい水で浸されたような感覚に陥った。
(あのゲームのせいだ……)
授業が終わり、帰宅した後、永遠子は自室で一人、考え込んでいた。今日は授業の内容も何も頭に入らなかった。
「い、いや、そんな、まさか…はは…」
永遠子はつい笑ってしまった。英子達三人の事故の原因が、昨日のゲームにあるのではないかという現実離れした考えを脳内から消去しようとした。
(…でも、昨日のあの怪物、頭が三個ついてた)
永遠子は化け物の三つの顔にあの三人の顔を照らし合わせてみた。馬鹿な考えだと思うが、異様な胸騒ぎが治まらないのだ。
あの眼光炯炯とした怪物……永遠子は今日クラスメイト達が自分を見つめるのが何故か分かった。いつも一人でいる惨めな自分を見て見ぬふりして、何食わぬ顔で学校生活を過ごしていた生徒達。彼らは自分だけが、永遠子だけが事故に巻き込まれずに生きてあのクラスの空間にいることに奇妙な念を抱いている。これは、「怪我の功名」だ。
もし、彼女達に爪はじきにされずに、仲良く四人で下校していたら、もしかしたら永遠子はあの教室にはいなかったかもしれない。
何故ならほんの二月程前までは、四人でいるのが当たり前だったのだから。
――永遠子は、仲間外れにされたから、「助かった」……?
だが、しかし本当にそうなのだろうか?永遠子は彼女達に疎外されたから、無事に生きていられる?事故に遭うことはなかった?それはなぜ?仲間外れにされなければ、自分も英子達と同じ道を歩いていた?
瞬間、あの三人が笑い合いながら信号を渡っているところを、信号無視の大型トラックが突っ込み、三人を次々とはねていくシーンが脳裏にフラッシュバックした。永遠子の目の前で鮮烈な赤が散る。
(――その通りになれ)
誰かが呟く。
――悪寒がする。
家に帰った後も胸騒ぎが止まらず、永遠子は乱雑に荒れた思考回路で自問自答を繰り返しながら、スマホの画面を開いた。
「Two Choice World」と打ち込み検索してみる。
だが、例のアプリは出てこなかった。ラインを開いてゲームの欄を隈なく探してみたが無駄に終わった。
永遠子は怖くなってきた。
「ただの、偶然…よね…」永遠子はそう一人ごちた。
それに、矛盾もある。事故に遭った三人は、担任が言うには、「昨日の夕方」だと言っていた。永遠子がゲームをプレイした時間帯は、夜の九時頃である。
永遠子はアプリを起動した。
恐る恐る、ロードボタンをタップした。
場面は昨日の商店街のシーンから切り替わり、何処かの病院の病室の映像から始まった。
『サクラ君、サクラ君…』
そう泣きながら呟く女の子は、ワットだ。前回の戦いで猫になってしまったサクラは、病院のベッドで横になっていた。
(やればやるほど、よく分からなくなるゲームだな…)
このゲームは恐らくファンタジーなのだろうが、どういった経緯でサクラが猫にされてしまったのか、よく分からない。
所詮はゲームの世界なのだが、このゲームには何かがある。
『うう~ん……』
すると、うめき声のような、しゃがれた声がベッドから聞こえた。
『あ!…サクラ君!!よかった!意識が戻ったのね!』
するとさっきまで項垂れていたワットがサクラ(猫)の小さな肉球を掴んで、揉みながら歓喜の声をあげた。
『ワットちゃん…にゃ~』
サクラ(猫)は力なく鳴き声をあげる。
するとさっきまで喜んでいたワットはまた俯いて嗚咽する。
『サクラ君、ああ、かわいそうに。こんな姿になって……あんな化け物に猫にされてしまうなんて…』
ワットは嘆いた。
『ワットちゃん…僕…元に戻る方法を、一つだけ知ってるよ……』
『! 本当!?』
ワットはサクラ(猫)を抱きかかえた。
『教えて!どうすればいいの?私、サクラ君の為なら何だってやるわ!』
『…人間の心臓が、必要なんだ』
するとワットがびくりと慄いた。
プレイしていた永遠子の心臓もどきりと高鳴った。
『僕のこの体を治すには、人間の新鮮な心臓を食べれば必ず元に戻る!昔何かの本で読んだんだ!お願いだよワットちゃん!誰かの新鮮な心臓を持ってきて!』
ピンクの猫はつぶらな瞳を潤ませながら懇願した。
『心臓を取ってくる』
『断る』
選択肢が現れた。
永遠子は狼狽した。現実のことではないが、無性に嫌な予感がするのだ。『心臓を取ってくる』を選択すれば、ワットは必ず心臓を取ってくるだろう。
昨日のあの凶暴な化け物を一人で倒したのだ。どれだけの手を使っても、必ず取ってくる。
(どうしよう…)
永遠子の手が震える。
もし、このゲームがなんの曰くも無ければ、気楽に、何も考えずに「心臓を取ってくる」を選択しただろう。
恐らくそれが正解だ。
だが……。
永遠子は震える手で選択肢をタップした。
『断る』
永遠子には取ってくる選択肢を試す勇気がなかった。
もし、『心臓を取ってくる』選択肢を選べば、明日、永遠子の身近な誰かが血を流すかもしれない。
そんな予感があった。永遠子自身霊感はないが、スピリチュアルな出来事を調べるのは好きだし、幽霊は存在すると思っているので、祟られでもしたら恐ろしい、それに今後罪悪感で生きていられなくなる。
『待ってて!』
ワットは永遠子が選択肢を選んだ後、そう断って病室を出て行った。
――数分後、ワットが息を切らせて戻ってきた。
『にゃぁ!早かったね!』
サクラ(猫)は尻尾をピンと立てて嬉々としている。
ワットは右手に何か袋を持っていた。永遠子は一瞬選択肢を誤ったのかと焦ったが、ワットはその袋から何かを取り出した。
『にゃに?みかん?』
サクラ(猫)は訝し気にその血のように赤く丸い物体を見つめ、鼻をひくひくさせた。それはブラッドオレンジだった。ワットは申し訳なさそうに言った。
『…ごめん、サクラ君、それだけはできない』
『…なんだって?』
サクラ(猫)の声色が変わった。
『君は、僕が一生猫の姿のまま、この先の余生を過ごせと言うのかい?』
サクラ(猫)はシーツに鋭い爪を喰い込ませてふるふる震えている。
『ちがう!でも、私は人間から命を奪うことはできない。…その代わりにコレ』
ワットはブラッドオレンジをサクラに差し出して『このみかん、甘酸っぱくて美味しいの。どうやって元に戻るかはコレを食べたあと考え……』
『だまらっしゃい!!!』
狭い病室に怒声が響いた。
『こんなもの!』
『あ!』
サクラ(猫)がバシッと肉球でブラッドオレンジを毬の様に弾いた。
『見損なったよ!ワットちゃんなんか、嫌いだ!!』
『サクラ君!』
サクラ(猫)が激怒し病室から飛び跳ねるように出て行った。
『待って!サクラ君!まだ寝てなきゃダメ!!』
ワットが悲痛に呼びかけるも、もうピンク色の猫の姿は消えていた……。
またゲームが強制的に終了した。
口内が苦いミントのような味に満ちていた。
翌日、永遠子は登校し、クラスメイト達が何やら噂話をしているのを小耳に挟んだ。
「英子ちゃん達の事故って、学校側の嘘らしいよ」
永遠子は椅子から立ち上がり、その噂をしている生徒達から話を聞いた。
三人は一昨日の夜、いきなり家で半狂乱になり、暴れだしたらしい。そして、顔が青黒く変色しだし、白目を剥きながら泡を吹いて倒れ、意識不明の重体になってしまったらしい。
救急車で運ばれたのは何時頃くらいか分かるかと尋ねたが、そこまでは分からないという。
だが、あくまでも噂らしい。担任に聞きに行こうとしたら、何人かの生徒が「止めた方がいいよ」と言った。
生徒にはごまかして教えてくれないだろうし、どうせ相手にされないからと。
――本来のことを伝えれば、世間にも原因不明の奇病の噂が広まり、そして学校にマスコミが押し掛け、そうなれば学校自体のイメージダウンに繋がる……。
永遠子は授業の間中、ずっと誰かの囁くような声を聞いていた。
(助けて……もう許して……)
うわ言のような声。永遠子は、あのゲームは『真実』だと踏んだ。
帰宅した後、自宅の部屋のソファーで蹲るように丸くなっていた。耳を塞げど聞こえてくる声、声、声……。
(痛い、つらい…くるしい……)
「うるさい、…私はもっと苦しかったのよ……」
永遠子は自分の耳元から聞こえてくる声を無視しようとした。
獣食った報いだ。彼女達が奇病に罹ったのは、自業自得ではないか。自分の知ったことではない。天罰が下ったのだ。永遠子はもう、あんな得体のしれない、歪んだゲームから離れたかった。
二択の世界……世の中は選択の連続だ。
彼女は今、選択の葛藤の只中にいた。あのゲームを、再度プレイするか、しないままアンインストールしてしまうか…。
――自分も、いつか、重大な決断を自分自身の意志でしなくてはならない時がくる。
英子、美衣子、志位子……、自分の勝手な選択の所為で彼女達を苦しませているのなら、自分が助けなければならない。
彼女達の、永遠子に対してやった行為に永遠子は傷つけられたし、決して好きな人種ではないが、こんな形でお別れしたいとは思っていない。私は、ただ――…。
もし、この謎めいたゲームをアンインストールして無かったことにしてしまえば、彼女は一生後悔するだろう。永遠子は迷った末、涙目になりながらスマホのタッチパネルをタップした。
『Two Choice World』。光沢のある文字が暗い部屋に映える。
ロードボタンを押した。
場面は再び商店街に戻っていた。そこには不安そうなワットの姿があった。
『サクラ君……何処に行っちゃったの……?』
最早永遠子もワットと同じセリフを呟いていた。この子は自分の分身なのだ。もうそうとしか思えないくらいシンクロしていた。今はサクラが行方知れずで、心配で仕方がなかった。
『ふう…喉が渇いちゃった』
探し疲れて喉が渇いたらしい。ワットが手で顔を仰ぎながら自販機の前に立つ。するとワットは後ろから何か気配を感じたのか、大きく横に跳躍して自販機から離れた。その瞬間、何かが自販機にぶつかり、辺りには破壊される金属音が鳴り響いた。
『ファック…また現れたわね』ワットは舌打ちしながら自販機の方向を睨みつける。
そこには前に商店街で対峙した化け物がいた。その化け物は唸りながら硝煙を吐き出している。だが、血だらけで、後ろ脚を引きずっていた。
『まだ生きていたのね。死にぞこないの化け物が…』ワットはサクラがいないのと、喉が渇くストレスで大分イラついているようだった。
ワットはポケットからぺティナイフを取り出した。
『戦う』
『様子を伺う』
永遠子は戦うのボタンを押そうとして、我に返った。状況に飲まれてはいけない。
『様子を伺う』を選択する。するとワットは無感動な眼で化け物を見据えていた。
その時、化け物が物凄い勢いで向かってきた。
「!」永遠子は驚愕した。やられる、と思ったその刹那、ワットの顔に柔らかなものが触れた。
何かから、ドッと赤い液体が溢れた。そこにはピンク色の猫が、血まみれで倒れていた。
『サクラ!!!』
ワットが絶叫した。間一髪、やられそうなところを、サクラが即座に膨らんで、クッションのようになって助けてくれたのだ。
永遠子は唖然とした。数秒して気が付くも、後の祭り。自分は選択肢を誤ったのだ…。サクラは倒れたままピクリとも動かない。呼吸もしていないようだった。
『‥‥‥‥‥』
「…何?」
永遠子はワットの刺すような視線を感じた。
ワットが、画面の中からプレイヤーの永遠子を鬼のような形相で睨みつけている。
『あなたの所為よ!!!』
「!」
ワットが永遠子に向かってきた。
「!!?」
首筋に絞めつけられる圧迫感を感じた。息ができない。スマホが手からすり抜け、渇いた音をたてて落ちた。
永遠子はパニックに陥った。
『死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね………』ワットは口から呪詛のように凍てつく言葉を呟きながら、永遠子の首を締め上げているようだった。
「な…んで……や、やめて……」永遠子は苦しみながらスマホを何とか拾い上げ、放り投げた。スマホが音を立てて壁にぶつかり、だが、首の圧迫感は消えない。
永遠子は七転八倒しながら、立ち上がり、スマホを持ち上げた。
このままでは死んでしまう……。
――ゲームの中の、自分の分身に殺される。
永遠子がスマホを机の角に思いっきり打ち付けた。何度も何度も打ち付け続けた。
「……私の人生は、二択でなんて決まらない!!」永遠子は呻きながら叫んだ。やがてスマホ画面が耳障りな音をたてて割れた。と同時に首を絞めつける感覚も治まった。
永遠子は何度もせき込み、床に転がって何度も息を継いだ。永遠子は疲れ果て、段々と意識が遠くなっていき、そして、何も見えなくなった――………。
気が付くと、永遠子は一面、白の中にいた。
状況が上手く把握出来なかったが、扉の開くような音が聞こえ、誰かが「永遠子」と呼びかけるのを聞いた。中年の女性が永遠子を覗き見て、瞳を潤ませると、頬をやんわりと包み込まれた。
数分して、それは母親だと気がついた途端、ああ、ここは病室なんだと理解した。
どうやら永遠子は、家族が仕事から帰宅し、もう帰ってるはずの娘の気配を感じないので部屋を覗いてみたら、そこで蹲って倒れている彼女を発見したのだそうだ。
こんなことは初めてなので、父も母も大分心配したらしい。
皆心配して医師から検査をしてもらったが、永遠子の診断は、どうやら、「ただの貧血」らしく、命に別状はないと医師に告げられ、皆で安堵した後、心配かけて……と母に弱弱しく叱られた。
永遠子は倒れてから丸三日、眠ったまま起きなかったらしい。
何故あんな状態になっていたのか家族に尋ねられたが、永遠子の記憶は曖昧で、するりとこんな言葉が零れ出た。
「ラインのゲームに夢中になっていて、つい癇癪を起こし、机の角にスマホをぶつけたらいきなり意識が遠くなった」
永遠子はそう答えることしかできなかった。
念のために、三日程入院することになった。その間永遠子は優しい家族に囲まれて、久しぶりに家族の温もりを感じた。
入院二日目の昼間、三人の女生徒が永遠子の病室を訪ねてきた。
それは英子と美衣子と志位子だった。三人とも目元に大きな青あざが出来ており、少し痩せていた。永遠子は驚いて事情を聞いた。
三人の奇病はどうやら本当らしく、あの夜、目の前が急に墨を掛けられたように真っ黒になり、焼けつくような苦しさに襲われたのだという。意識が無くなった後、その間、永遠子が苦しんでいる夢をずっと見ていたのだという。
そして何度も謝罪させられ、永遠子ではない誰かが、『目を覚ましたら実際に会いに行って謝れ』と言われたらしい。
そして三人は、「今までごめんね。」と謝罪をしに来たらしい。永遠子は押し黙って様子を伺っている三人に対してこう伝えた。
「もういいよ。…結構、楽しかったから」
永遠子は何かが吹っ切れた気がした。
彼女達の眼に出来た青あざは、三年経ってやっとひいたという。
――桜舞う季節、永遠子は進級し、新しい友人も出来、いつも通りの生活を送っていた。
帰り道、乃村永遠子は不意に空を仰ぎ、薄桃色の桜を焦がれるように見つめた。
その時、背後に何かの気配を感じた。
永遠子は後ろを振り向いて確かめるが、そこには美しい桜並木が凛と咲き誇っているのみで、誰もいない。
永遠子はひらりと掌に落ちてきた一枚の花弁をそっと握りしめ、口内に広がる、何とも言えない甘い風味を感じながら、家路に続く住宅街を、再び歩き出した。
――「あの子、もう大丈夫だね」
――桜並木の裏で、誰かが何かに話しかけた。
「まじさ!未来から遠路遥々来た甲斐があったなぁ」
「シーッ!もう少し静かに!」
そこには、オレンジボーダーのボディスーツにウサギ柄のハーフパンツを履いた少年と、白と琥珀色の斑模様のスキニーを履いた女性が立ち話していた。
「記憶もしっかりアウトしてあるようね…」
女が確認するように永遠子を眺めていると、少年は胸を張り、「当ったりめぇじゃん!この俺がインプットされた仕事をミスる訳…ァイテッ!」
「だから。もう少し静かに」
女が意気揚々と話す少年を小突いて叱咤した。
「私の高祖母だもの!あのままだったら病んで引きこもって結婚出来なくなって、私達も存在しなくなるところだったんだから。もっと私に感謝しなさい」
「ちェッ…自分だけの手柄みたいに言ってら」
女が威張るので、少年の方がつまらなそうにしている。
「…あのねぇ。私の研究のお陰で、アンタ、過去にタイムスリップ出来てんのよ。私が未来の世界でどれだけの功績を残したか―……」
「あーはいはい!分かった分かった!」
女の長話が始まりそうだったので、少年は焦って遮った。
「でも、さすがに首を絞める演出はやりすぎたんじゃねーの?」
少年は呆れ気味にそう言うと、彼女は首を左右に大きく振って、腕組みをしてこう言った。
「…あの子はそんなに弱くない」
女は断言するようにそう言い、更にこう続けた。
「あのスマホ画面から離れて欲しかったのよ。今まであの子、スマホばっか覗き込んで溜息ばかり吐いてたから。…世の中にはね、もっと広い世界が広がってるの。この時代の子供達はあんなものがある所為で、真面目すぎるのよ。……それに、死にそうな思いをしたら肝が据わるでしょ?タイムラインよりもタイムスリップ出来る未来よ!」
「フーン。…俺、アンドロイドだからよく分かんない」
少年は首を傾げてそう言うと、パッと顔を輝かせて自慢げにこう言った。
「でもあのゲームは俺が徹夜して完成させたんだぜ?俺とお前を元にして作ったキャラとシナリオ、良かったろ?勝ったら口の中がチョコレート味になる仕組みとかさ、浪漫じゃね?最高じゃね?やっぱ俺、ゲームデザイナーになろっかなぁ~…」
「はいはい!後でフレッシュボドム食べに行こ!」
女が少年の肩を押し、二人は一瞬の閃光と共に、跡形も無く消え去った。
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