森の奥には、心に棲まう魔物が居る(小説)

眼を覚ますと、土の上に倒れていた。

降りしきる雨、服も身体もびしょ濡れで、酷く寒かった。

どうやら自分は、何処かの崖にいるらしい。

脚が痛い。怪我をしているようだ。花歩は泥にまみれ、動かない自分の脚を見つめる。血が出ている様だ。動かそうとしたら、ひりつく様な痛みが自身を襲う。

自分は何故、こんな場所にいるのだろう……。

花歩は緩慢な思考でゆっくりと回想を始めた―――



初夏。冷たい水が美味しく感じる今日この頃、二人の女子生徒は職員室の中にいた。

「あっちが先に手を出したんです」

丸めたティッシュを鼻にさした二人が、同時にお互いの顔を指差す。

「あーはいはい、ちょっと待ちなさいね」教頭先生と担任が即座に睨み合いを開始しようとした二人を制した。

今年、中学一年生になる藤咲花歩と長野真希は小学校三年生から六年生まで同じクラス、そして中学校までも一緒のクラスという腐れ縁である。

花歩は中肉中背で、柔道部に入っており力と体力に自信があり、真希はすらりとした体形で、陸上部に所属し、他にクラシックバレーを習っており、身のこなしはしなやかで、すばしっこかった。

そんな二人はとても仲が悪かった。

初めて出会った時から、どうしてもそりが合わないのである。なので顔を合わせればいつも喧嘩をしているのだが、その喧嘩の内容が男子より酷い。

口喧嘩だけでは終わらず、最後には取っ組み合いになる。どちらかが鼻血を出すまで終わらないのだ。

終いにはヒートアップしてバケツの水をかけ合い、窓ガラスを割る、学校の備品を投げ合って壊す。そしてまた殴り合いである。

互いに対するいたずらもしょっちゅうで、花歩の場合は、真希の机の裏に鼻くそを擦り付けたり、机上に犬の糞を置いたり、机内に湿ったエロ本を入れるなど、下品ないたずらをよく仕掛けた。

一方真希は、何やら痒みの発生する液体を花歩の椅子に塗り付ける、机内に木工用ボンドを大量に注入する。油性マジックで机上を落書きするなど、いじめっ子がやりそうな類のものであった。

中学生になっても尚、悪化するその仲の悪さに、教師達も辟易し、頭を悩ませていた。

「なら一緒のクラスにしなきゃいいじゃない」

真希がロングの髪を指に巻き付けながら、切れ長の目を釣り上げて言った。

「ていうより、転校させて欲しいな」

花歩も首を傾げて二つ結びの髪を揺らし、クリッとした瞳で教師達をじっと見つめた。

担任がやれやれといった様に溜息を吐く。どうしますか?と教師が隣で眉間に皺を寄せて黙っている教頭に目配せした。

「君たち、今度の日曜、善獄山に登って来なさい」

「…はぁ?」

二人が同時に呆気にとられた様な声を出した。

『善獄山』は学校の裏手に位置する山地である。標高は1000m近くあり、結構有名な山地だ。

「あんた達、中学生になっても仲が悪いまんまじゃダメでしょ。…だからね、山の一つでも二人一緒に登って、関係を緩和させなさい」

教頭は寄せていた皺を元に戻し、朗らかにそう言った。

「嫌です!何でこんなクソみたいな女と!」

「うわー、ないないない…ないんですけど」

花歩も真希も一斉に猛抗議した。

「君ら、あの山登らなかったら来月の修学旅行、行けないよ」

花歩と真希の抗議の声がぴたりと止まった。

担任が教頭を狼狽えた様な目で見つめたが、教頭は黙ってろとでも言う様に目配せし、「……行ってきなさい」

担任もそう言わざる負えなかった。

その教頭の顔は、笑う鬼の様だった……。



―――日曜日、二人は嫌々準備をし、渋々リュックを背負い善獄山へと続く坂道を歩いていた。

時刻は午前九時を差している。

「あーぁ、折角のお休みが、こんな奴の所為でつぶれちゃう~…」

花歩が如何にも嫌そうに呟いた。
「それはこっちのセリフだし。ブス」
真希が返す様にぼやいた。

…すると、何か甘ったるい匂いが花歩の鼻腔に入ってきた。

「…うわ、くさッ何この匂い……あまったる~」

花歩が鼻をつまみながらそういうと、真希が「ヘアコロンよ。あんたの体臭を消すためにつけてきたの」

真希は続けて、「ていうか、何?その恰好。だっさ」

真希は花歩の着てきた学校専用のジャージに文句を言う。真希はお洒落な登山スタイルに対し、確かに花歩の恰好は野暮ったかった。

二人は一瞬歩を止め、睨み合ったが、このまま喧嘩になり、登山をする時間が無くなって修学旅行に行けないことになるのは困る。二人は睨み合いを止め、再び歩き出した。

真希はスマホで音楽を聴きながら、花歩は昨日見たテレビの内容のことなど考えながら緑生い茂る砂利道を黙々と進んだ。山の中腹に入っていくにつれ、傾斜が急になり、足が段々と重くなってくる。

生い茂る緑。何処かで鳥の鳴き声がする。汗が二人の顔を滴り落ちる。季節は初夏。今日も十分暑かった。

「…つーかさぁ、あたしとあんたじゃ体力が全然違うんだから、足手まといになんないでよね。なったら置いてくからね!」

花歩が煩わしそうにそう言うと、真希も負けじと「あんただって私より足遅いんだから、私の足引っ張らないでよね!」

また喧嘩になりそうになるが、体力的にきついので、お互い憎まれ口を叩くことしかできない。

途中、山の中間地点で休憩をし、お互い背を向け合って弁当を食べた。

―――何故、こんなにも嫌いなのか?

花歩は、歩いている最中、そんなことを考えた。何故か、出会った当初から気に入らないのだ。お互い、何かされた訳ではない。とにかく、真希のことが憎くて、邪魔で仕方がないのだ。

…きっと、真希も自分のことをそう思っている。

何だか、花歩は悲しい様な、寂しい気分になってきた。

「…あれ?」

そう思って歩いている内に、花歩は隣にいたもう一つの影が無いことに気が付いた。

見ると、三十メートル後方で、真希がリュックを降ろして座り込んでいた。

「真希!何やってんのよ!」

花歩が大声で真希を呼ぶ。真希は威嚇する猫さながらに花歩を睨み、そしてまた体育座りで頭を抱えた。

花歩は少し心配になり、真希に近寄った。「…真希?」

花歩が呼びかける。

真希の顔色を窺えば、真希は少し疲れている様子だった。

「…先に行って」

真希が言う。

花歩が迷っていると、「早く行ってってば!」

真希は花歩を睨みつけ再度そう叫んだ。

花歩は時計を確認した。時刻は午後一時三十分を差している。

花歩は溜息を吐いた。喧嘩しながらも険しい山道を登り、やっと目的地の頂上まで辿り着きそうなのに…、花歩は不意に空を見上げた。

真希のことは大嫌いだが、置いて行くのは何だか気が引けた。

花歩は真希と一緒に座り込んだ。真希が驚いてこちらを見たが、花歩は気にする素振りを見せずに黙って体育座りをして顔を伏せた。

「…ちょっと」

―――しばらくして、何かが花歩の肩を揺さぶった。

「…ん?」

花歩が顔を上げると、呆れた様な顔をした真希がいた。いつの間にか眠っていた様だ。花歩は真希の顔を凝視した。 

「真希…?…あ!え⁉今、何時⁉」

花歩は慌てて腕時計を確認した。

「二時よ」

真希がスマホを花歩の眼前に掲げて言った。

「……あぁ、まだ二時か。…よかったぁ~」

花歩が間抜けな声を出し、それから微かに空気が震えた様な気配がした。

「…行くよ」
真希はポニーテールにしていた髪をもう一度結い直し、リュックを背負って歩き出した。

花歩も慌てて自分の荷物を持ち、真希の隣に並んで歩き出す。

いつの間にか、二人の間に漂っていた空気が、ピリッとしたものから変化している感じがした。

―――もしかしたら、教頭はこれを狙っていたのかもしれない。

二人で険しい山道を登ることによる、「連帯感」。

仲の悪すぎる二人も、善獄山を登ればあら不思議。いつの間にか仲良しこよし。

そして、ようやく頂上に辿り着いた。二人は手を取り合い喜んだが、瞬時に我に返り、はっと手を放した。二人は善獄山が見せる絶景を眺め、新緑が放出する空気を胸一杯に吸い込んだ。

花歩は、何だか、真希と仲良く出来る気がしてきた。学校でも、顔を合わせれば憎まれ口…ではなく、些細なことを話して笑い合える友達に…―――。


山を降りていく途中、暗雲が立ち込めてきた。一つ、二つと水滴が頬に落ち、ぶつかって砕けた。雨が降ってきた様だ。

「しまった」

花歩は傘を持っていなかった。天気予報は晴れだと言っていたので必要無いと思って持って来なかったのだ。

真希はリュックから折り畳み傘を出して差した。雨は次第に酷くなってくる。

「……あんたも入る?」

真希は花歩に自分の傘の中に入る様、それとなく伝えた。

「…いい。要らない」

だが花歩は傘を拒否した。この期に及んで借りを作りたくない、等と考えてしまったのだ。

二人は雨の中必死に歩いたが、土砂降りになってきて、段々歩ける状態では無くなってしまった。

「これ、やばいよ…もう歩けない!」

花歩がそう叫び座り込んだ。

雷鳴が近くで轟き、花歩は「ひッ!」と慄き頭を抱えた。雷は大嫌いだった。

「どっかに避難しよう。ほら!ビビってないで立ちなさいよ!」

真希が冷静にそう言って花歩の腕を持ち上げた。

大雨の中、雨水でぬかるんだ地面を二人、腕を取り合って進んだ。最早、この土砂降りでは傘は役に立たない。真希は折り畳み傘を何処かへ捨てた様だった。

雨で息苦しい上に、服や靴が水を吸っていて重い。花歩は全て脱ぎ捨ててしまいたかった。早く家に帰りたい。そう思った。やがて、必死で足を動かして進んだ先に、洞穴の様な場所を見つけた。

「…洞穴だ。花歩、行くよ」

真希はそう言って花歩の腕を放し、洞穴の中に入って行った。

「…真希?真希、…大丈夫?」

花歩は洞穴の奥へ消えた真希が心配になった。もしかしたらこの洞穴は、熊の住処かもしれない……。

「花歩!入ってきて!」

真希は大声で叫び、花歩を呼んだ。

どうやら何もいない様だ。花歩はほっと胸を撫でおろし、洞穴の中に入って行った。

洞穴の中は薄暗く、湿気を孕んだ空気で充満しており、何だか薄気味悪い感じがする。

ぴちょん…と水滴の落ちる音がする。

真希は洞穴の奥の方でリュックを降ろし、長い髪をフェイスタオルで拭いていた。時計を見れば、五時を回っている。花歩は心細い様な、不安な気持ちに襲われた。

「…やっぱり私達、相性悪いみたいね」

真希の方向を見ると、真希は愛想笑いする様な、微妙な笑みを顔に浮かべて、スマホから何やら曲を流し始めた。ピアノの様な旋律。洋楽の様だ。

花歩は濡れたジャージを脱いで、真希の隣に腰かけた。

「…これ、何の曲?」

花歩が尋ねる。

「30セカンズトゥマーズの、ハリケーン」

知らない曲だった。

「…へぇ」

花歩と真希はその曲を黙ってぼんやり聴いていた。穏やかな時間が、二人の間に流れた。

「…ねぇ」

真希が花歩に話しかけた。

「…何?」

「あんた、好きな人いる?」

「…なんで?」

「…別に」

真希は俯いてまた曲に耳を傾ける。

「…いるよ。理科の筧先生」

花歩がにやついた顔でそう言うと、真希は「趣味悪」と言った。

「何よ!じゃあんたは好きな人いるの?」

「…いるわよ。教えないけど」

真希はそう言うとまた顔を伏せた。雨は未だ止まない。

何処かから、野犬の遠吠えが聞こえる。

「…ねぇ」

花歩が口を開く。

「何?」

「ワンコって、美味しいのかなぁ?」

花歩は腹が減っている様だった。まだまだ育ち盛りの中学生だ。小さな弁当一つではもたない。

「バーカ、不味いに決まってんでしょ」

真希は呆れ気味にそういうと、自分のリュックの中からビスケットが入っている箱を取り出し、その中の一袋を花歩に渡した。

「…いいの?」

花歩は真希とビスケットの袋を見つめ、尋ねる。

真希はもう一つの袋を開けながら「不味いなんて言ったらぶん殴るからね」

そう言ってビスケットを口に運んだ。

「へへ…さんきゅー」

花歩は貰ったビスケットを嬉しそうに頬張った。


「…あたし達、完璧に遭難しちゃったみたいだね」

花歩は未だ止まぬ雨を見つめて意気消沈する。

スマホも圏外、自分達は今どの辺にいるのかも分からない。

…寒い。

時計の針は六時半を差している。薄闇に染まる空を見て、花歩の心細さはピークに達していた。

「どうしよう。あたし達、このまま帰れなくなったら」

花歩が不安げに呟くと、「だ…大丈夫よ。きっと、お母さん達が心配して助けに来てくれるから」

真希は自分自身を納得させる様にそう言った。

「そう…ね」

花歩はそう相槌を打ち、震える指を擦り合わせた。とにかく、寒いのだ。

花歩はこんな事態は予想していなかったので、着替えを持ってきておらず、ジャージの下は半袖だった。只でさえここは山岳地帯、夏場でも夜は冷え込む。

「………」

真希はそんな花歩を見て、少しの間思案し、「ちょっと待ってて」

「…え?ちょっと!真希!」

真希は花歩に上着を被せて洞穴の外へ出た。

花歩は焦って真希を引き留めようとするが、真希は「雨足弱まってきたし、今なら麓まで降りられるかも!助け呼んでくる!」

「ちょっと!真希!待って!まだ雨降ってるし危ないよ!」

花歩は叫び、真希を引き留めようとしたが、もう真希の姿は降りしきる雨の中に消えていた……。

 ―――「真希の奴、…おそいな」

真希が消えてから三十分以上経過した。真希は麓まで辿り着けたのか、それとも、もしかしたら、何処かの崖に落ちてしまったのかも……。

花歩は寒気がして、真希が貸してくれた上着を着直す。

…真希がこんなに優しい子だとは思わなかった。

雨が降った時、真希は自分の腕を取り、安全な場所まで連れて行ってくれた。弱音を吐く自分を大丈夫だと言って、励ましてくれた。

花歩の心は今、真希に対する感謝の念で溢れている………。

…しかし、もしかしたら真希はとっくに山の麓まで辿り着いていて、因縁の相手である花歩のことなんか忘れて、一人ぬくぬくと家で紅茶でも飲んでいるのかもしれない。

花歩は雨が弱まって来たのを機に立ち上がり、洞穴から出て足場の悪い山道を速足で歩いた。

「真希―!」

花歩は真希の名を呼びながら歩いた。

見渡す限りの緑の闇に飲み込まれそうになりながら、花歩は草木の生い茂る森の中を彷徨い歩いた。

途中、苔むした木の根に何度か躓き転んだ。土が口の中に入り、花歩は何度かえずいた。花歩の足は傷だらけだった。

先程まで、自分を優しく包み込んでいた自然が、突如牙を剥いた様な気がした。

花歩は自然の驚異に触れて、改めて山になんて二度と登りたくないと思った。

ここは樹海なのか、転んだ際に何か、縄のような物を見つけた。そういえば、ここは自殺の名所で有名だと風の便りで聞いたことがある。

花歩はもう、疲労困憊だった。遠雷の音。

「うぅ…こわいよう……、もうお家に帰りたい…。もう悪いことしないから…いい子にするから」

花歩がそう言って蹲り、じっと動かないでいると、何処かから声が聞こえた。

「…かほ」

微かな声だが、確かに聞こえた。

花歩は顔を上げ、導かれるように声が聞こえた方向に歩いて行った。すると、そこには崖があり、その下から花歩を呼ぶ声が聞こえる。

「真希!」

花歩が崖から顔を出し呼びかけた。そこには真希がいた。どうやら崖から落ちた様だ。二メートル程の崖だった。

真希はか細い声で、「助けて…」と言った。

真希は左手で庇う様に右腕を覆っている。転落した際に負傷したらしい。大分衰弱している様だ。

「真希!…もう大丈夫!」

花歩は勇気づける様にそう言ってから、一度樹海に戻り、さっき見つけた縄を取ってきた。

「真希!これに捕まって!」

花歩はそう言い崖下に縄を落とした。

「…ありがとう」
真希は感謝する様にそう言い縄に捕まった。

だが、雨による泥濘の所為で足を取られ、中々上にあがることが出来ない。

「…もう、ちょっと…がんばれ……」

花歩は必死で真希の手を掴もうとした。

幾度となく引き上げようとして、やっと真希の手を摑まえることが出来た。

「やった!やったよ真希!今引き上げるからね!」

花歩は安堵し、引き上げようとする。真希は華奢なので、力のある花歩なら難なく引き上げることが出来る……―――。



―――雷鳴が脳髄を震わせる。

花歩の回想は、そこで途切れた。

何故、そこで途切れるのか?

自分は真希を助けようとしていたのではないのか?花歩は自分の記憶が真希を助ける所で途切れ、何故自分がこんな場所で土砂に塗れているのかが分からず混乱した。

花歩は上半身を何とか起き上がらせ、周辺を見渡した。すると、自分は五メートル近くある崖下にいるらしく、辺りは真っ暗だった。花歩は恐怖で涙が溢れた。そして、下半身に温かな感触。どうやら、尿を漏らしてしまったらしい。

「た、…たすけてぇー!」

花歩は掠れた声で必死に叫んだ。

何度か叫んだ後、微かに、誰かの声が聞こえた様な気がした。

「花歩!…花歩!」

真希の声だった。

「真希―!」

花歩は必死で真希を呼んだ。真希は崖から顔を出し、花歩の無事を確認すると、覚悟を決めた様な顔をして、崖を滑り降りてきた。

「真希!」

花歩が驚愕して叫ぶ。真希は土が柔らかかった為か、上手く着地することが出来た様だ。

「…真希、助けに来てくれたのね」

花歩は泣きながら真希の腕を掴んだ。

真希の手には包帯が巻かれている。

「その包帯は?」

花歩は怪訝な顔で真希の右腕を眺めた。

「…花歩」

真希は花歩を能面の様な顔でじっと見つめている。

「な、…なに?」

花歩がそう尋ねると、「―――…ごめんね」

真希がそう言って、花歩の頭を思い切り石で殴打した。頭蓋に感電したような衝撃を感じ、花歩は倒れた。花歩はぼうっとした頭で、真希を視界に捉えようとするが、もう一度、頭に衝撃が走る。   なにもかもがわからなくなってきた……。


やがて、電池が切れる様に、花歩の意識が闇の中に消えた―――。



―――時は、数時間前に遡る。

花歩は真希の腕を捕まえ、引き上げようとした。真希は軽いので、力のある花歩なら、難なく引き上げられる……。

―――……だが、そこで、花歩は今まで真希にされたことが脳裏に蘇った。

口喧嘩、殴り合い、いたずら……。いつも、いつもいつもいつもいつも、自分の邪魔をする。憎い女…。

花歩はグッと腕に力を入れ、真希を崖の淵まで引き上げた。

「花歩、ありがとう、本当に」

真希は感謝する様に花歩の顔を見た。

「…?……花歩?どうしたの?」

訝しげな顔をして真希が尋ねる。何だか花歩の様子が変だ。

花歩の唇は不自然に戦慄き、顔は土気色に染まり、双眸は汚泥の如く濁っていた。

「…‼」

すると、花歩は両手で真希の細い肩を強い力で押した。真希が再び崖に落ち、土砂に塗れた。

「花歩‼」

真希が悲痛な声で叫ぶ。

「……助ける訳ないでしょ」

雷雨の中、花歩は冷たくそう言い放ち、そして崖から走り去った。

「あはははは‼殺してやった!見殺しにしてやった‼」

花歩はそう言いながら暗く深い森を走り抜けた。

清々しく、とてもいい気分だった。

これで山の麓にさえ辿り着くことができれば、自分は自由だ。もうあの女に邪魔されなくて済む。…―――十二分に暴れまわることが出来る。

―――その時、雷鳴が轟き、花歩の目の前の木に雷が落ちた。瞬時に木が燃え上がる。

「ぎゃあああああ‼」

花歩は錯乱し、なりふり構わず走り回った。

―――そして、足を滑らせ花歩は五メートル近くある崖下に転落した。

花歩は、したたかに身体を打ち付け、そのまま意識を失った…―――。




暗く、深い森の中、瞳を閉じ、大きく深呼吸してから、また開く。

真希は、そこに転がる花歩の亡骸を見て、何とも言えない気持ちになった。

悲しみとも、喜びともつかぬ気分だった。花歩は、学校内で有名な問題児だった。

可憐な見た目とは裏腹に、その凶暴な性格は、小学生の頃から発露し、周囲の人間の悩みの種になっていた。

花歩は、「獲物」……標的にした相手を力ずくでねじ伏せ、完膚なきまでに叩きのめすことを趣味とした。

それが、彼女の唯一の「喜び」だった。

彼女は人道的に物を考えることが出来なかった。自分に逆らう相手は必ず病院送りになった。花歩は精神病院に送り込まれたが、帰ってくるとすぐに蛮行に及んだ。

もう誰も手が付けられない、薬を注入して眠らせ続けるしかない。

誰もがそう判断せざる負えない程、花歩の横暴ぶりは酷かった。

だが、日に日に悪化していく花歩の所業を見るに見かねた真希は、小学三年生の頃から、自分が「獲物」になることを心に決めた。

他のクラスメイトに危害が及びそうになったら、必ず間に入り、真希に注意を向ける様にした。真希も花歩と同じ立場になり、争うことで、花歩も暴虐非道に振舞うことが難しくなった。クラスも、真希が自ら頼み込んで、同じクラスにして貰っていた。

最早花歩と渡り合えるのは真希しかいなかった。

真希は人が苦しんでいるのを放って置けない、心優しい少女だった。

……花歩にも、それを分かって欲しかった。

真希は花歩に見捨てられ、置いて行かれた後、「やはり、自分に彼女を救うことは出来なかった」と思った。

この登山をきっかけに、真希は凍り付いてしまった花歩の心を溶かすことが出来るかもしれないと、そんな期待を持っていた。実際に花歩が歩き疲れた自分を待っていてくれたのは、嬉しかった。真希は思った。

「この子は不器用なだけで、何も悪くない」と。

崖にさえ転落しなければ……。真希は悔恨の念に苛まれた。

時間が刻々と過ぎていき、身体が冷え、睡魔に襲われる。このまま誰も助けに来ないまま、自分は衰弱死、または餓死する運命だと思った。

だが、きらりと光る筋の様なものが真希を照らした。

それはレスキュー隊員だった。

真希は保護され、隊員から暖かい毛布を貰い、手当を受けた。

それから、もう心配しなくていいよ。お母さんも待っているからね、と告げられた。

真希は安堵した。だが、花歩を探す身内は何処にもいなかった。花歩には家族がいない。

花歩は、産まれてすぐに施設に預けられた孤児だった。

いつしか、彼女の心には、彼女に巣くうもう一つの人格が形成されてしまったのだ。

……まだ終わっていない。真希は隊員の目を盗んで、逃げ出した。原生林の中を全速力で走り、花歩を探した。

花歩のことを本当に思ってやれるのは、自分しかいない。




彼女は、自分の手で救ってあげなければいけない。誰もやらないのなら、自分が。もうこれ以上、彼女が憎悪を膨らませ、悪逆を繰り返さない様に。罪の無い犠牲者が出ることの無い様に。

真希には、心に決めたことが、一つだけあった―――…。

Fulgora

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