「映画どん、いんな」
「……は?」
開口一番、爺さんは俺を見るなりそう言った。
「静之助、映画どん、見にいんな!」
鹿児島訛りの爺さんの言葉を訳すと、「静之助、映画を見に行くな」と、爺さんは俺にそう言ったのだ。
「…意味わかんねぇ。何言ってんの?」
「わいは馬鹿か、よかでぇ、きゅは映画どん見にいんな‼」
爺さんに向かって冷たくそう言うと、爺さんは食い下がらず、尚も俺に今日は映画を見に行くな。と言ってくる。
俺、静之助20歳、大学生。
今日は講義もバイトも無く、一日フリー。俺は今日、公開前から楽しみにしていた映画を観に行く予定があった。そして、準備をして家を出ようと靴を履いている最中、いつもは芋焼酎を吞んだくれている爺さんに、そんな事を言われたのだ。
「映画どん見にいんなッ!映画どん見にいんなッ!映画どん見にいんなッ!映画どん見にいんなッ!映画どん………」
「ちょッ!オイッ!離せッこの、クソジジィ‼」
爺さんは同じ言葉を連呼しながら、俺の腰にしがみつき、俺が映画を観に行くのを頑なに妨害しようとしてくる。焼酎の匂いが鼻について、俺は思わず顔をしかめた。
訛りでお分かりの様に、鹿児島出身の爺さんは、今年76歳、俺の父さんの親父だ。爺さんは俺が産まれてから婆さんと都会に出て、俺ん家の近くに住んでいた。共働きの父さん母さんに代わって、爺さんは幼い俺の面倒をよく見てくれていた。俺は爺さん子だった。
そして俺が大きくなり、婆さんが死んだ後、しばらく一人で暮らしていたが、70を過ぎてから徐々に認知症を発症し、一人で暮らさせるのは危ない。だからと言って施設に入るかどうか尋ねると、「自分はまだ呆けていない、自由に暮らしたい」と言って聞かないので、俺達家族の家で暮らす事になった。
爺さんの症状は、同じ事を何度も繰り返したり、昼夜問わず徘徊したり、さっき飯を食ってたのに、まだ食ってないと言ったり、小便を漏らしてしまったり、割と酷かった。そんな爺さんの介護をしている母さんも、顔には出さないが、確実に疲れているのは目に見えて分かった。
俺は、仕方がないにしろ、そんな爺さんに嫌気がさしていた。
「映画どんいんなッ!映画どんいんなッ!映画どんいんなッ!」
爺さんは皺だらけのイボのある顔を引き攣らせ、狂った様に俺にしがみつき、喚いた。俺は真昼間から爺さんとこんな攻防戦を繰り広げる事になるとは思いも寄らず、焦った。
「…おい!離せジジィ!うぜぇなぁ!」俺はそう言うなり力の限り俺にしがみつく爺さんを引き剥がした。
すると爺さんは引っくり返り、地面に尻餅をついてしまった。はっとして、俺はそんな爺さんを黙って見つめる。
「…静之助!アンタ何やってんの⁉……おじいちゃん、大丈夫?」
「母さん…」
俺が爺さんを突き放した時、隣を見れば、買い物袋を提げた母さんがそこにいた。
運悪くその光景を見てしまったらしい。母さんが驚いた表情で買い物袋を投げ出し、爺さんに歩み寄った。俺は複雑な思いでその様子を眺める。
尻餅をついた爺さんは白髪頭を俯かせてゼイゼイ言っている。
母さんは、突っ立ったままの俺を責め立てる様に見つめた。
「…………」
俺はバツが悪くなってそのまま家を立ち去った。
後方で静之助!と咎める様な声が聞こえたが無視した。
(クソ。あのジジィ、なんだってんだ、今日に限って)
俺は心の中で愚痴を盛大に垂れ流し、雑然とした気持ちを整理できないまま、駅へと続く道中を歩いた。
―――今は変わり果ててしまったが、そんな爺さんも昔は若かった。
自由人で、血気盛んな無頼漢。この身一つで世界諸国を放浪し、同じ様な仲間を引き連れバイクでブイブイいわせていたらしい。
俺がまだ小さな頃、爺さんの家で若い頃のアルバムを見せてもらった事がある。
「よかにせどんじゃろ?」
俺、イケメンだろ?そう言って広げられたそのアルバムの中の写真は、ボブマーリーの様なドレッドヘアーに顎髭を蓄え、精悍な顔つきをした男がバイクにまたがり葉巻に火をつける様な仕草をしながら映っていた。
そして、お前は俺にそっくりだから、成長したらこんな男になるぞ。と言われたのを覚えている。俺は胸が高鳴った。俺もこんな男前になるのかと、早く大きくなりたいと願った。
…だが、現実は違った。今現在の俺は、黒髪短髪、顔は凡庸、何処にでもいるただの人間になってしまった。
頭も特別良くないし、特に夢がある訳でも、やりたい事がある訳でもない。
彼女も出来たためしが無く、四月も半ば…、桜は散れども、俺の春はまだ来ない。
俺は自分の将来に漠然とした不安を抱いていた。毎日の様に流れる暗いニュース、拡散される情報、少子高齢化、不景気……。
世の中は常にリスクと表裏一体。俺は、ただ毎日をぼんやりと過ごし、流されるままに生きて行くしかないのかと、そんな焦りにも、恐怖にも似た思いがあった。
だが、そんな俺の暗澹たる日常に、束の間の潤いを与えてくれる人物がいた。
それは、アイドルの「葉瀬川レミ菜」。
通称「レミティ」だ。
レミティは、知る人ぞ知るマイナーアイドルで、俺はそんな彼女の隠れファンだった。
出会いは高校三年の頃、受験勉強や学校の人間関係で疲れていた俺は、放課後の帰り道に寄った商店街の広場の前で、デビューシングルを歌っている彼女を見かけた。その姿に俺は目を奪われた。俺は引き寄せられる様に彼女の歌を聴き、なけなしの小遣いで彼女のCDを買った。あの時握手してくれた彼女の太陽の様な笑顔を、俺は一生忘れない。
それから、俺はレミティの歌声に勇気づけられ、その後の大学受験を乗り切った。
大学に進学した後も、バイト代は殆どレミティのイベントや写真集、CD等に消えていった。
彼女は俺の灰色の日常に光を注いでくれる天使だった。
今日は4月15日。彼女の初主演映画の上映開始日だった。その名も『スリーサイズウォーズ』。訳の分からん、明らかに大コケしそうなタイトルの映画だ。内容もめちゃくちゃで、レミティ扮する女子高生の主人公が、自分のバストの小ささに悩み、変なマングースの様な生き物に、「戦闘少女になってくれたらバストアップさせてあげる」と言われ、戦闘少女になり敵をやっつけていくという、何処かで見た事ある様な、いや、無い様な、半分セクハラの様な映画だ。
でも、俺は観に行く。何故なら、そこに銀幕大写しのレミティがいるからだ。
(そうだ…今日は待ちに待ったれレミティの映画をやっと観られるんだ。あんなジジィに邪魔されてたまるか!)
俺は爺さんの事などすっかり忘れ、頭はレミティの事でいっぱいになっていた。
俺の中で、尊敬し、慕っていた爺さんはもういない……。母親も爺さんの介護で毎日疲れ切っている。
人間の世話をすると言う事は、綺麗事じゃないんだ。
(耄碌ジジィ、…さっさと施設に入っちまえ)
俺の中で、もう昔の爺さんの面影はとうに消えていた。
そうして俺は勇み足で自動改札機にICカードを通し、レミティの待つ映画館へと急いだ。
最寄りから、電車を一本乗り継いで、4駅ほど揺られた後、映画館のある駅に到着した。
レミティの映画は上映館がごく僅かで、上映回数も少ない。俺はレミティの主演映画が上映されている映画館を調べ、自分の最寄りから一番近い「桜桃シネマ」という映画館で鑑賞することに決めた。
駅を出て、スマホで地図を確認する。今日向かう桜桃シネマは初めて行く場所だった。人でごった返している娯楽街を抜け、入り組んだ路地に入り、目的地へと向かう。
「―――あれ?確か、この辺りのはずなんだけどな……」
俺は頭をカリカリ搔きながら、辺りを見渡した。地図通りに向かったはずなのに、桜桃シネマが見当たらないのだ。辺りには古い木造の住宅地が軒を連ねるばかりで、「桜桃シネマ」と書かれた看板は何処にもなかった。もう一度スマホで地図を確認してみる。…うん。この辺りで間違いないはずだ。
「まじかよ……、迷うとかありえねんだけど」
俺は困ってしまってそうぼやいた。
今日は、何としてでもレミティの映画を観たいのだ。
あのナチュラルな、可愛らしい笑顔が、見たいんだ……。
俺は溜息を吐いた。時計を確認すれば、時刻は13時30分を差している。
レミティの映画は14時00分からなので、まだ30分は余裕があるが、俺は焦っていた。
すると、俺の視線の端に、何か穴の様な物が映った。それは住宅地の板壁にぽっかり空いており、中は真っ暗で何も見えない。空洞の様になっていた。
恐る恐る近寄ってみる。穴だ。俺はその穴を食い入るように見つめる。
「………」
俺は、何故か引き寄せられる様にその空洞に頭を突っ込んだ。そして足をかけ、中に入る。
「……?」
地面に足をつけると、途端に湿気を含んだ生暖かい風が、俺の周りを吹き抜けた。薄闇の空が広がり、その他には何も無い、荒野の様な場所に立っていた。田んぼの様な柔らかな土を踏みしめる感触、そんな場所にいるにもかかわらず、不思議と恐怖はなかった。
俺は深呼吸して周囲を見渡すと、そんな原っぱの様な土地に古びた建物がぽつんと建っているのが見えた。
「かくれ、よざ……?」
それは今時珍しい、小劇場の様な外観をしていた。
上の紫色の看板には明朝体の様な字で『隠世座(かくりよざ)』と書かれている。学生の身分で恥ずかしいが、俺にはどう読むのか分からなかった。
外観は黒を基調としていて、アンダーグラウンドな雰囲気がプンプンする。
俺はそういった物は理解できない。何だか不気味な印象を受けた。
「ここ、明らかに桜桃シネマじゃない、よな…」
俺はその薄気味悪い建物を疑う様に見つめる。
よく見ると、入り口の左側に、受付の様な窓口がある。店員はいるのかいないのか、よく見えなかった。
『隠世座』……怪しいが、ここも一応映画館なのは間違いない。俺はスマホを確認し、上映開始まで残り20分、迷ったが、背に腹は替えられぬ。俺はそこでチケットを購入し、映画を鑑賞する事にした。
「すみません、あの、スリーサイズウォーズのチケットが欲しいんですけど……」
俺は受付窓の前に立って話しかけた。窓は半分格子になっていて、よく見えなかった。
だが、反応はない。俺はもう一度呼びかけようとして、「千」
「え?」
「千」
ひしゃげた蛙の様な声が聞こえた。その人物はそこにいるのかいないのか、格子のせいもあるが、中が薄暗く、よく見えない。
「千」
尚もその声は俺に向かってそう言う。近くで囁きかける様な声だ。俺は慌ててジーンズの尻ポケットから財布を取り出し千円を渡そうとすると、窓口からぬっと棒切れの様な皺だらけの痩せた手が出てきた。
「………」
俺はぎょっとしながらも、その手に千円札を置き、千円を受け取った手が一旦引き、またその手が出てきて「チケット」…らしき物を俺に手渡した。
それは真っ赤な、くしゃくしゃの飴の包み紙の様な物だった。
(これがチケット?…なんか、まじで気持ち悪ぃな……)俺は内心ドン引きだったが、それでもレミティの映画を観たいが為、暗い感じのする、この得体のしれない小劇場へと足を踏み入れた―――……。
扉を開けると、中も薄暗く、薄気味悪い雰囲気だった。内装も殺風景で、所々紫や緑が混ざった様に見える。
全体的に暗い。なんというか……出そうだと思った。…幽霊とか。
あぁ、勘弁してくれよ。ホラーの類は大の苦手なんだ。
…とにかく、残り時間後10分だ。俺は入り口だと思われる、どす黒い赤のビロードの幕の中に入った。
館内はそんなに広くなかった。席数は100席くらいだ。暗い室内の中央に幕を下ろされたスクリーンがある。俺は赤いチケットを見るが、そのチケットはただただ赤いのみで、何も書かれていない。そもそも座席番号の書いていないチケットなど意味があるのだろうか。
俺は仕方なく適当な席に座った。
(…………?)
そして俺はここに来て何か、違和感を覚えた。
客が一人もいない。10分前だというのに、席には誰一人座っていなかった。後ろから三段目の中央に俺が一人座っているのみだ。
―――暗い室内で一人きり……鳥肌がたった。これが普通の映画館ならば、貸し切りだと言って浮かれていただろう。だが、今日は違う。自分が予期していない劇場での鑑賞。よく分からない奇妙な土地に出て、見つけた映画館だ。俺は今更不安になって来た。
そして、不意に今日、爺さんが俺に対して映画館に行く事を止めた出来事を思い出した。
何故、爺さんはあんなに激しく俺の映画館行きを妨害したのか……?
俺は不審に思った。
それに、俺はレミティのファンである事はおろか、家族全員に映画を観に行く事など伝えてはいなかった。
俺は、突き放してしまった時の、爺さんの辛そうな顔を思い出し、少し、胸の奥が締め付けられる様な感覚がした。
―――寒気がする。
俺はパーカーのフードを目深に被り、ポケットに手を入れた。
ビーーーーー……
開演ブザーが鳴った。幕が上がる。何の予告編も無しに映画が始まった。
スクリーンに女子高生姿のレミティが映った。棒読みのセリフが流れる。言わされてる感満々である。
だが俺はそんなレミティに夢中になり、ここが得体のしれない映画館、そして爺さんとの出来事などすっかり忘れ、レミティの女子高生姿に見入った。
そして、紆余曲折あり、レミティが戦闘少女として戦った後、悪役が基地の様な場所で何やら作戦会議をしているシーンに入った。レミティ自体は美しいが、物語自体は全く面白くない。
……これで120分は長すぎる。
そこで、俺はスクリーンからふと目を放すと、何か妙な気配を感じた。
自分の席の前方に人が座っている。それは、何故か見知った人物の様な気がした。
頭で考えるより、先に身体が動いた。その人物に強烈に惹きつけられる何かを感じたからだ。
俺は自分の席を立ち、前の座席に座っている人物に声を掛けに行こうとした。
「…⁉」
暗闇の中、いきなりグッと腕を掴まれる圧迫感。俺は動揺して掴まれた腕の方向を見ると、「ジッ…ジジィ!」
俺は目を剥いた。そこには家にいたはずの爺さんがいたからだ。
「静之助!あっちにいんなッ!あっちにいんなッ!」
何故だ!?何故こんな所に爺さんが?俺をつけてきたのか?いやまさか、ありえない。
爺さんは認知症だ。爺さんは俺の腕を掴んで前に行くのをまたも妨害しようとしてきやがった。つーかなんでここにいるんだよ!
「あっちにいんなッあっちにいんなッあっちにいんなッあっちにいんなッ……」
皺だらけの手で俺の腕を両腕で掴み、必死で前へ行かせまいとしてくる爺さん。
なんでだ?爺さん、何か俺に恨みでもあるのか?あっ、昼間突き放した事を怒ってるとか?
「あー、もうッじいさん離せッ!」
俺はまた爺さんを引っぺがし、前の席へと足早に進んで行った。
俺は気配のする方向に目を凝らした。暗い中に、スクリーンの光で淡く人影が写った。
やっぱり人がいる。
俺はその人影を確かめようと、その人物のいる席に近づいていき、その人物を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
―――そこには、レミティがいたからだ。
「…………」
俺は一気に心拍数が上がるのが分かった。
色白小顔の、モカブラウンの前下がりショートヘア。目はそんなに大きくない。服装は、デビュー当時の薄い橙色のワンピースを着ている。
そんな彼女が、俺を見上げる様に、射抜く様に見つめてくる。
この、困った様な顔が、堪らないのだ。
香水の様な匂いが、鼻腔をくすぐる。
今、目の前に自分の憧れの女性がいる。彼女をどうにかしてしまいたい衝動が、俺の脳細胞を刺激する。レミティが俺を手招きして呼んだ。
俺は、ゆっくりと吸い寄せられる様に彼女に近づいていき、彼女の頬に触れ、口づけようとした。
唇同志が触れ合う、……その瞬間、「‼」
―――目の前に、変貌した彼女がいた。
顔は赤黒く爛れ、眼窩は落ちくぼみ、顔から何か液体の様な物がぽたぽた滴っていた。
そして、とんでもない腐臭が鼻を刺激する。
「ヒッ……」
それは俺にのしかかり、こう言ってきた。
「だ・い・て……?」
瞬間、顔が食虫植物の様に上と下に真っ二つに開いた。最早それはレミティではなかった。……ゾンビだ。
「うわぁああぁあ‼」
俺は叫び、その化け物から離れようとしたが、化け物の身体は重く、中々離れることができない。
これは何だ?夢か?
そう思う間もなく、化け物は奇怪な叫び声をあげ、俺に喰らいつこうとしてきた。
ゾンビレミティの唾液がぼたぼたと俺に降りかかる。
万事休す。ああ……、短い人生だったな……。もうだめかと思ったその時―――…
俺の襟首を何か、強い力に引き上げられた。
「⁉」
俺は驚いて後ろを見た。すると、「つかまっちょれ‼」
それは、爺さんだった。「爺さん!たッ助けて……」俺は爺さんに必死で捕まった。
化け物は尚も俺に向かって来ようとしてくる。
「静之助!あっちにいっちょれ‼」爺さんは出口の方を指差して俺に指示してきた。
俺はしばらく惚けていたが、爺さんに「早よせんね‼」
と言われ、必死で出口の方に向かった。
―――――‼‼
……すると、凄まじい轟音が響いた。館内が揺れる。
「静之助!早よ逃げんね‼」
爺さんが叫ぶ。俺は逃げる際に、つい、後ろを振り返ると、スクリーンに巨大な穴が開いていた。
それはまるでブラックホールさながらで、俺はついそれに見入ってしまった。
すると、ビュウッと風が吹き、館内中の大気がその穴に吸い込まれていく。
「うわッ……⁉……」
俺は叫び声をあげる間もなく、そのブラックホールの中に吸い込まれていった…―――。
――――――――…………。
気が付けば、俺は宙に浮いていた。
「浮いている」というより、水中をぷかぷかと漂っている感じだ。
まるで無重力空間にいる様な感覚。辺りを見渡すと、何処か虹色味を帯びた透明な空間にいる様だった。
「…今日って、4月15日だったよな……?」
混乱しているのか、何故かそんな言葉が口をついて出た。
「…のすけ!…せいのすけ!」
声が聴こえる。…この声は、確か―――……。
「静之助‼…お前は、…早よ逃げちゆうたどが!」
早く逃げろと言ったのに!と言う老人の野太い声がする。
「…爺さん!」
はっと声がした方を振り向けば、そこには着物姿の爺さんがいた。
「爺さん……俺達、どうなっちゃったんだ?」
「はなしゃ後でよか、こけけ!バケモンがくっど!」
爺さんは焦って話す俺をいなすと、こっちへ来いと言い、宙を舞う俺の手を取り、素潜りをする様に下降して行った。
…すると、また唸るような、チェーンソーで木を切っている様な音がする。
「じッ爺さん、あれ……」
思わず後ろを振り返ると、そこには、かつて、「レミティだった物」がいた。
それは、さっき見た時より巨大化していた。赤黒い胴体に、脚は八本付いた、女郎蜘蛛の様な化け物だった。モンハンで言えば、ネルスキュラに似ている。
「化け蜘蛛じゃ……わいが気を引く為に、よかおごじょに化けちょったんじゃ!」
俺の気を引く為に、良い女…葉瀬川レミ菜に化けていた……?
あまりのトンデモ展開に頭が付いて行かない。呼吸困難になりそうだ。
爺さんはそう説明するなり、懐から何かお札の様な物を取り出して、念仏の様な物を唱えた。そしてそのお札を化け蜘蛛に向かってぶつけた。
ギィイィイィ……‼
化け蜘蛛は怯んだ声を出す。そして怒り狂い、俺達に向かってきた。
爺さんが化け蜘蛛の攻撃を遮る様に手を翳す。するとバリアーの様に化け蜘蛛の攻撃は弾かれた。
「うわッ…爺さん!すげぇ……って、えええええ⁉」
その爺さんの成せる業に感動し、俺は爺さんを見ると、なんと爺さんの姿も変貌していた。
―――そこには、筋骨隆々の精悍な顔立ちをした、ドレッドヘアーの若者がいた。
「えッ⁉…なんで?え⁉…はぁ⁉……てか俺も?」
俺はまたも焦った。そして、自分の手を見ると自分の身体も少し縮んでいる。一体どうなってる?
「時空の歪みじゃ、こん場所は時空を超越した世界じゃっどね」
爺さん(青年ver.)はニッと笑うと、幼い俺の頭を撫でた。若い爺さんからは、タバコときつい香の匂いがした。
「……爺さん…」
あんた、一体何者なんだ?と聞く間も無く、爺さんは戸惑う俺を尻目にまた念仏か何かを唱え、自分の足と手にお札を張り付けた。
そして俺の頭と身体にもそれを張った。
化け物は唸り声をあげ、また俺達を喰らおうとするかの様に涎を垂らしている。
そして化け蜘蛛が向かってきた。
「チェーーーッストォオッ‼‼ 薩摩隼人魂じゃあ‼」
若返った爺さんはシャウトし、その化け蜘蛛の攻撃を避けて、お札のついた逞しい腕で化け蜘蛛を何度も殴る、蹴る。
攻撃が効いているらしい。化け蜘蛛は悲鳴をあげた。そして鋭い爪で爺さんの腕を引っ搔いた。
「グッ……」
「爺さん!」
爺さんは自分の腕を庇う様にし、そして俺に心配ないという風に、笑って首を振った。
―――その瞬間、俺は、思い出した。
まだ幼い頃、両親と爺さん婆さん、みんなで川遊びに連れて行ってもらった事がある。
泳ぐのに夢中になっていた俺は、うっかり深みに嵌り、溺れてしまった。
その時、父さんより先に、母さんよりも早く、爺さんが川に飛び込んで助けてくれたんだ。
『静之助、つかまっちょれ!』
爺さんがいなかったら、俺はきっと……。
爺さんは、いつも俺を気にかけていた。
今思うと、俺は何度か事故に遭いそうになったり、原因不明の熱を出して死にかけた事が何度かあった。
そんな時、いつも爺さんがそばにいてくれていた気がする。
『静之助』という名をくれたのも、爺さんだ。
『静かに、堂々と生きて欲しい』
そう、願いを込めてつけられた名だ。
――……思い出した。
(……それなのに、俺は。)
認知症になったからと言って、邪険に扱ってしまった。俺はそんな自分が情けなくなった。
いつだって爺さんは、俺を第一に考えてくれていたというのに。
「…爺さん。…俺、」
俺は爺さんに謝ろうとした。
だが、「よか、よか、わかっちょる。……わいは、憑かれやすい子じゃったからのう」
そして爺さんは縄の様に長い数珠を取り出した。
爺さんはまた念仏を唱え、未だ荒れ狂う凶暴な化け蜘蛛に数珠を巻き付けた。
化け蜘蛛は苦しみの声をあげ、暴れる。
「―――助けて!」
すると後ろから、声が聞こえた。後ろを振り向くと、そこには傷を負ったレミ菜がいた。
「静之助君!助けて!くるしいよぉ~…」
レミ菜が泣いている。俺は苦しんでいる彼女を放って置けず、その場所に行こうとする。
「静之助ぇ‼」
爺さんが俺を呼ぶ声がして、俺は我に返った。またも姿を変貌させ、大口を開けて待ち構えていたレミ菜に俺は張り付けていたお札を叩きつけた。
ギィイッ!とかつて「レミ菜だった物」は、瞬時に消え去った。それは化け蜘蛛が見せた幻影だった様だ。
「おいげん孫を惑わしよって、馬鹿が……」
太く凛々しい眉毛をひそめて爺さんは忌々しそうにそう言う。
俺は爺さんの方に寄っていき、「危なかった…それで、どうするんだ?」と尋ねた。
爺さんは石の様な物を取り出して、何もない、時空間に向かって投げた。
するとそこに渦巻が発生し、ブラックホールの様な穴が出来た。
「逃げろ!」爺さんが言った。俺は戸惑いながらも「わかった!…でも爺さんは?」と尋ねる。
「後から行っで、心配すんな」
と爺さんは言った。
俺は何だか嫌な予感がして、爺さんの腕を掴む。がっしりとした、太い腕だ。
爺さんはニッと完全無欠の様な笑みを浮かべて、静之助、と俺に向き直る。
「薩摩隼人魂、パッションじゃ! 静之助。安心せい…わいばっかいのフリーロードがあっでよ!人人悉道器(にんにんことごとくどうきなり)じゃ」
そう言い終わるや、俺は闇が濃い部分にどんどん吸い込まれていく。
「爺さん‼……待ってくれ!ッ爺さーん‼」
俺は何故か、爺さんが手の届かない、遠い場所へ行ってしまう様な予感がして、爺さんに向かって叫んだ。
だが、爺さんはドレッドヘアーをたなびかせ、穏やかな微笑みを讃えながら、化け蜘蛛と共に、光に満ちた方向へ向かって行った―――…。
―――――――――………。
はっと目が覚めた。そこはベッドの上だった。
俺は布団からのっそりと這い出てスマホを確認する。『4月15日 7:30』
「…あれ?」俺はスマホ画面を凝視した。
すると、さっきまで曖昧だった記憶が一気に戻ってくる。
そうだ、俺はさっきまで、あの映画館に―――……。
「静之助!」
俺が慌てていると、母親が上ずった声で俺を呼びながら二階の自室に入って来た。
「静之助…!おじいちゃんが大変なの!」
「…爺さんが?」
「とにかく来なさい!」
俺は母親に言われるがまま、階下に降り、爺さんが寝ていた客間まで連れていかれた。
そこには、爺さんの前で座り込んで俯いている父さんと、眠ったままの爺さんがいた。
「爺さん?…寝てんの?」
俺がそう言うと、母さんは違うのよ、と涙ぐんで言う。
「あのな、爺さん…、親父は、あの世に行ってしまったみたいなんだ」
父さんが遠回しにそう言った。
「―――え?」
俺は凍りつく。母さんは爺さんの頬をそっと触り、すすり泣く。
俺は茫然とするしかなかった。
嘘だろ?…だって、昨日まで、いや、さっきまで、あんなに元気だったじゃないか。
いや、若かったじゃないか。そうだ、俺、爺さんと―――…。
俺が何か言おうと口を開きかけた時、「…静之助」と父さんが俺に封筒を手渡した。
俺はそれを受け取り、なんの感慨も抱かないような仕草で、封を切った。
中には護符と、一枚の紙切れが入っていた。
紙を広げると、そこには「旅をしろ そこにお前の生きる道がある 自由に、堂々と 勇之助」という簡素な内容が記されてあった。
俺は、その一文を見た瞬間、目頭が熱くなり、さっきまで認めまいと我慢していた液体が溢れ出てきた。
爺さん…、爺さん…、ごめん、ごめん、うわずった声でそう言いながら泣いた。
どうしてもっと優しくしてあげられなかったんだろう、邪険に扱ってしまったのだろう。
…爺さんは、いつも頼りない俺を見守ってくれていたというのに。
ごめん、ごめんな、爺さん、大好きな、世界一かっこいい、俺の爺さん……。
すると、何か暖かい物に包み込まれた様な感覚がする。
父親と母親に抱きしめられていると知った途端、俺は恥ずかしくなり、泣くのを止めた。
俺は爺さんを見つめる。目を閉じ、とても穏やかな、安らかな顔をしていた。
天国に行ってしまったであろう、爺さんに、「男が泣んもんじゃなか」と言われている様な気がした。
俺は、少し大人になった様な気がする。
この件以降、俺はレミティを追いかけるのを止めた。
レミティに興味が無くなった訳じゃない。
だが、今までアイドルに費やしていたお金を、自分の為に使いたくなったのだ。
爺さんが教えてくれた、『薩摩隼人魂』……パッションを探すために。
爺さんこそ、俺に光を与えてくれた救世主だ。爺さんと一緒にあのスクリーンにダイブした思い出を胸に。
俺は自分の将来を想像する。
―――俺にだって、一介の九州男児の血が入ってるんだ。
俺は、爺さんの孫である事を誇りに生きる。
自信を持って、静かに、堂々と。
とりあえず、俺はこれから、髪を伸ばしてバイクを買う金を貯めようと思った。
……爺さん、俺も、もうしばらくこっちの世界で自分だけのフリーロードを探すために頑張るよ。だから、あっちの世界で婆さんと一緒に好きだった芋焼酎でも呑みながら、見守っていてくれ。
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